序 総括的客体化に向けて
昨年7月、モーツァルト・イヤーに沸くオーストリアの美都ザルツブルグで第六回国際ホワイトヘッド学会が開催された。僕は、そこで「プロセス思想と実存論(Process Thought and Existentialism)」という標題の部会を担当し、企画から当日の司会、研究発表という役を担った。
その準備を進めるなかで、僕のなかに、改めて、ある問いが浮かんできた。
実存論とプロセス論は、どう切り結ぶのか。
これが、僕の課題になった。いや、これは、僕がホワイトヘッドを読み始めた当初からの課題だったことに、改めて、思い至った。
この熱弁は、これまで取り組んできた僕のホワイトヘッド読解の総括である。その読解作業に何か創造的な持続があったとしたら、今は、その持続するエポックの生成のプロセスに一区切りがつけられ、そこに達成されたものは客体化されるべきときだと思う。
だから、この熱弁は、ひとつの総括だ。
プロセス思想というのは、ホワイトヘッド哲学およびそこから出発� ��た哲学・神学・倫理学・宗教学・社会学・心理学・経営学・生物学・物理学などを含んだ思想潮流のことである。
ホワイトヘッドは、相対性理論や量子論などの現代科学の見地にも相応した壮大な思弁哲学の形而上学的宇宙論を展開した。その出立点となったのは、ある洞察だった。
それは、何か。
実存論とプロセス論が邂逅する場所は、ここにある、と僕は考えた。ホワイトヘッドの宇宙論的思弁の考究の出立点において、論理体系の構築以前に、彼の実存論的な直観が宇宙論的なヴィジョンへと開けていくというめくるめくような洞察の深まりがあったのだ。
全宇宙から個々の実存を見、個別的実存から全宇宙の創造的営みを見る、という往還するまなざしの中で、彼は「有機体の哲学」と呼ばれる思弁哲学を構築し� ��いった。
それは、実存主義につきまとう孤独性を、つまり、全宇宙の中でたった一人で孤独に決断しなければならない単独者の寄る辺なさを、全宇宙の森羅万象との結びつきのなかへと解き放つような洞察の深みだったはずだ。
そこには、「今、ここ」での実存の、全宇宙の直中での孤独性と、それにもかかわらず一切との結び付きにおいて生起するという関係性、そして、この個別的実存が宇宙の創造的営みの焦点となるという創造性とが、ひとつの体系的ヴィジョンとして提示されている。
彼の思弁哲学は難解ではあるが、その論理体系のうちには、彼自身が若い頃ラッセルらとともに開拓者となった現代論理学や、現代物理学の相対性理論、量子論をも取り込んで、実在の自己表現としての論理を人間的実存と文明社会� �根底に見出すような壮大な展望が蔵されている。
これから試みたいのは、ホワイトヘッド哲学における実存論的洞察と宇宙論思弁とが邂逅する考究の出立点の探求である。この出立点に立って、ホワイトヘッドは、実存論的宇宙論とも呼ぶべき独自の思弁哲学の論理体系を構築したのだ。
実存論的宇宙論と僕がここで呼んだのは、「われわれは、この宇宙において何もので、どこから来て、どこに行くのか」という問いかけに導かれた思索のことである。それは、僕らがそこにおいて生まれ、そこにおいて生き、そこにおいて出会い、そこにおいて分かれ、そこにおいて死にゆく現実の世界の営みを問いかける思索である。
実存主義は、全宇宙の中でたった一人で決断しなければならない、という孤独さと寄る辺なさによっ� �刻印されている。けれどもそれは、孤独の中で、自己完結しようとする思想ではない。機械のように無機的なものになろうとするのでもない。孤独の中で、それでも自己自身でいようとする思想である。そういう衝動というか、意志というか、生の躍動が、実存思想にはある。
けれども、こうしてほとばしるものを支える何ものも、この世界のうちに見出せないところに、実存主義の問題がある。
パスカルやキルケゴールは神との関わりへの逆説的な決断によって、ニーチェは意志そのものが意志を超え出ていくという超人のあり方をめざして、ハイデッガーは恐らくは存在それ自体がささやきかける大地への回帰によって、サルトルはアンガージュマンというあり方を模索することによって、それぞれに、孤立無援の実存のうち� �ほとばしる生の息吹きをこの世界へとつなげようとしたのかもしれない。
ホワイトヘッドの哲学は、こうした実存論的な思想に対して、どのような宇宙論的ヴィジョンを示すのか。ホワイトヘッドの思弁哲学の中に、宮沢賢治のいう「世界のまことの幸福を索ねよう」という希求と、西田幾多郎のいう「実在の自己表現の形式としての論理」への洞察とを求めて、宇宙の直中での実存、実存の中なる宇宙、という壮大な思弁哲学の出立点を探求したい。
壱 西欧近代文明批判としての近代科学批判
ホワイトヘッドの思索は、『科学と近代世界』(1925)『過程と実在』(1929)『観念の冒険』(1933)という三部作において開花した。それぞれの著作は自然科学から宗教、文明社会から物理学まで、広大な領 域を扱ったものであるが、各巻の中心的な主題を取り出せば、『科学と近代世界』は科学論を、『過程と実在』は宇宙論を、そして『観念の冒険』は文明論を扱ったものだといえる。彼の視野は、とてつもなく広く、そして深い。
しかし、このはるかな展望をもつ探求の出立点は、最も身近な事実へのまなざし、すなわち現実の世界において生まれ、生き、出会い、別れ、そして死にゆく僕らの実存の洞察であった。
その実存論的な思索において問われているのは、この世界における人間の存在と活動の意味だけでなく、むしろ、それらを可能にするこの世界のあり方、人間と世界との関係である。それゆえそれは、宇宙論的な視座において展開された実存哲学だといえる。
彼自身の言葉を使えば、その宇宙論的・実存論的な� �心は、「われわれは世界とともに何ができるのか、その限界を決定する」(AI 78)ような経験についての解釈、および「この<大地>で生命の飛翔する冒険のために必要な、思想と行動のあの自由を保証する」(AI 86)ような「より偉大な共感の絆(a greater band of sympathy)」(ibid.)に向けられている。
この視座から、彼は文明を問い、科学を問い、宗教を問うたのである。
最初に、こうした有機体の哲学の問いと、それを貫く決して悲観的にならないトーンに導かれながら、実存論的プロセス論の試みとして、まず、人間がそこに住まう世界と、世界の創造的な営みの中での個々の人間存在の意味を考察していきたい。
「われわれはこの世界とともに何ができるのか」という問いかけは、ある理解を前提としている。
そこでは、僕らの個別の実存と、この全宇宙の営みとが、ともに問われている。このような問いかけを可能にするのは、宇宙における個別的な価値の創発が、宇宙の全体としての価値の実現と不可分かつ交互的に結びついている、という根本的な理解である� ��
「有機体とは、一定の価値を実現するものである」(SMW 194)とホワイトヘッドは述べ、さらに語を継いで「しかしそれ[価値を実現する個別的出来事としての各有機体]は、その本質そのものよりして、それがそれ自身であるために全宇宙を必要とする」(ibid.)と言っている。これこそ、有機体の哲学の核心となる洞察である。個の価値実現のためには、全体が必要とされる。端的に言って、世界の内に見出される個々の要素は、その固有の価値を実現するために、2つのものを必要とする。すなわち、「その個別的自己と、宇宙におけるその意味づけ」(MT 111)である。
近代西欧の知的伝統は、自己の個別性を極端に強調する一方で、宇宙におけるその意味づけを欠いていた。
近代の「人間の自己全体がもつ個別的価値を強調する思潮」(SMW 195)においては、「物的実体は価値の領域からまったく斥けられ」(ibid.)、精神的実体の「私的世界」(ibid.)が価値実現の唯一の場として取り残されることになった。
ホワイトヘッドの近代科学批判は、世界を「無感覚、無価値、無目的」(SMW 17)の非情な物的諸要素が一般的法則にしたがって瞬間ごとにその位置を占めつつ盲目的に動く無限の空間として捉える機械論的自然観に向けられている。それは、ほとんど神なき世界である。
ほとんど、といったのは、近代科学の機械論的自然観と整合性を保つような神論が、近代科学の登場とともに、スコットランド啓蒙主義の自然哲学を中心にして連綿と議論されてきたからである。近代世界は、当初から無神論的だったのではない。西欧近代世界には、いわゆる理神論の奇妙な伝統が開花した。ちょうど機械時計を作る職人が、その製作の最後にぱちんと時計の蓋を閉じてしまえば、あとは時計がその仕組みにしたがって自動的に動きだして時計職人の出番はなくなるように、自然界もいったんその材料が組織立ち、法則にした� �って精密に動き出すと、もう創造の神の出番はない。いや、時計職人が自分の作った時計に後から干渉できないように、創造者たる神は機械的な自然法則に関与することはもうできない。
そこに、自然科学が自律的に活動できる領域がまず確保される。それが、自然科学の扱う自然、つまり物的宇宙である。それは、すべての観察者に対して公平に開かれた公共の世界公共の世界であるが、精密な機械時計のように動くだけの、精神なき世界であり、数式によって記述可能な自然法則にしたがって運動する「無感覚、無価値、無目的」の物的要素の世界である。
こうした科学的物質主義は、価値実現の場を個体的自己の私的な領域にかぎり、そのような限定は、個別的な領域の外部において実現される公的な価値について� ��く無感覚な精神を生み出す。
こうした無感覚な精神の活動は、しばしば、公的な場に実現される価値の破壊を惹き起こすことになる。ホワイトヘッドは、ロンドンに建設された鉄橋を例に引きながら、そこには調和の美を破壊する「2つの悪」があると述べている。すなわち「各有機体がその環境と結ぶ正しい関係の無視」と「環境に固有な価値を無視する習慣」(SMW 196)である。
近代西欧文明は、奇妙な断絶を孕んだ宇宙論の基盤の上に展開した。近代西欧の知的伝統は、価値実現の場を個人的自己にまで狭め、全体としての世界を没価値的なものと捉えた。
近代の自然科学は、それが取り扱う自然の中に、価値も、創造的活動も、目的も見出さない。ホワイトヘッドはそれを「科学の盲目性」と呼び、「こうした科学は、ただ人間経験によって提供された証拠の半分しか取り扱っていない」と指摘している(MT 154)。
ホワイトヘッドによれば、没価値的な事実だけを取り扱う科学の盲目性は、「科学の物質主義的機械論(materialistic mechanism of science)と、具体的な生の事柄において前提とされている道徳的直観(moral intuitions)との背反」(SMW 80)を招いた。
科学と道徳のこうした「背反」によって、近代自然科学の宇宙論は、価値へと関わる人間のあり方に決定的な断絶と疎外を引き起こす。公的な事実の世界の探求と、私的な価値の世界の探求との分離、つまり、スノーの言う「二つの文化」の分裂によって、近代の文明化された社会の成員たちは、宇宙における個別的自己の意味づけを見失ったのである(C.P.スノー『二つの文化と科学革命』第三版、松井巻之助訳、みすず書房、1985年。)
近代自然科学が提示する宇宙モデルは、人間の生きる宇宙、人間を生かす宇宙を描くことができない。「無限のなかにおいて、人間とはいったい何なのであろう」というパスカルの問いに、科学的宇宙論は答えることができない(B.パスカル『� �ンセ』ブランシュヴィック版、断章72)。
人間の存在の意味を問うとは、このとき、世界の意味を問うことと一つである。人間存在の私的な価値を見出すために、世界の公的な価値が探求されなければならない。このような全体と個との関係の中での価値探求の歴史が、文明化する社会の歴史である。
しかし、全体的・公的な場における価値実現を考察することは、個別的・私的な価値の創発を無視することではない。「宇宙における個別的自己の意味づけ」という観念が意味するのは、個別的自己が存在するという事実において、世界の価値が特殊な仕方で実現されているということである。
ホワイトヘッドによれば、「求められているのは、それ自身の固有な環境に在る有機体の達成した、生きた価値の、か� ��りない種々相を評価することである。」(SMW 199)個々の事実において創発する諸価値を、それらが影響しあって織り成す全体的な価値との関連において見出していくことが、有機体の哲学の視座である。
ホワイトヘッドの有機体の哲学は、17世紀以降に成立していった近代自然科学と近代哲学の批判から出発している。そのとき、彼が特に問題視したのが、宇宙論的なものと個別的なものとの関わりを、物的で機械論的な自然という公的で客観的な領域と、意味や価値が切実な問題となる実存論的で私的、内面的な領域という二分法の枠にはめこむような近代の思考法だった。
思想史的・文化史的にいえば、それは、自然科学の扱う没価値的な事実の世界と、文学・哲学・宗教の扱う価値・感情・道徳の世界との分裂という事態である。
この分裂のなかで、哲学は存在論を� �て、デカルトにはじまりカントによって大成された自然科学的な認識の基礎づけという仕事に主に従事してきた。いわゆる認識論的転回である。この転回を主導したのは、自然科学の圧倒的な勝利だった。
この分裂は、20世紀に至っても調停されることはなかった。20世紀の新しい思想潮流のひとつとして登場した実存主義・実存哲学も、科学の機械論的自然観を保持しつつ、あるいは暗黙のうちに認めつつ、科学が扱えない個別的自己の存在を問うという仕方で、この二分法をふまえていた。
機械仕掛けの時計にたとえられるこの宇宙の中で、今、ここにいる私とは何ものなのかという問いが問われたのだ。
ホワイトヘッドの哲学は、この分裂こそが、現代の宇宙論的な課題だとした。一方には、科学の描く否定のしようの� ��い事実の世界があり、他方には現に価値を実現し感情に動かされつつ意志する生の営みがあるが、両者をともに含む宇宙論を近代世界はもっていないということが問題となったのである。
僕はそこに、宇宙論的な課題とともに、実存論的な課題があると思う。
ホワイトヘッドが提唱した有機体の哲学は、ひとつの宇宙論の試みであり、しかも、そこには、実存論的な切実な問いが蔵されている。
自然科学の宇宙論には、僕ら自身の生が、生きとし生けるものの生と死の営みが登場しない。一方、古来の神話的・宗教的な宇宙論は、自然科学の知見を受け容れることができないままである。こうした二分法的な思考パターンに対して、有機体の哲学は、すべては生きているということ、そしてこの宇宙はそうした生の営みによっ て形成される重厚な生命活動そのものだということを主張する。
有機体の哲学では、自然科学の諸成果は否定されることはないが、この生きている宇宙の具体的な活動を抽象した図式にすぎないとされる。一方、個別的人間の内的で主観的な領域まで狭められた価値・感情・道徳・意志は、生きている宇宙全体の営みが織り成す具体的な出来事のすべてへと解放され、この自然の一切が生きているという根本的な自然観へと転換される。
ワルファリンは、バイアグラの効果を減らすん。
こうしたホワイトヘッドのヴィジョンは、その壮大さゆえに、賛否両論、というか、ある地点まではどの立場の人も受け入れ評価するが、全体としてはなかなか理解されないままだった。最大の欠点は、生きている自然という根本的な理解に基づいて展開されたその形而上学的宇宙論が、自然科学の知見をも取り込み人間的実存も宗教も文明社会の営みをも取り込んだものであったため、極めて難解なものに仕上がっているという点だろう。
現代哲学の、特にホワイトヘッドと同じ英米圏の哲学の主流は、17世紀以降の認識論的転回に継いで、哲学の仕事は言語の分析であるとする言語論的転回の中で動いている。こうした流れからは、ホワ イトヘッドのヴィジョンは、理解不可能なものに映るようだ。
ホワイトヘッドの哲学は、近代の存在論から認識論への認識論的転回の背後にある物的・機械論的な自然という公的で客観的な領域と価値や意味が切実な問いと成ってくるような私的で主観的な領域という二元分裂論の登場を厳しく批判し、現代の形而上学的価値論から言語分析へという言語論的転回に抗して、生きている自然における価値の実現という自然観、生命感への「生命論的転回」を行っているといえる。
個別的自己の実存に立脚した実存論的な立場から言えば、宇宙論的な展望をその思索のうちに取り戻すこと、そして機械論的自然観に立脚した自然科学の側から言えば、意味や価値への問いを取り戻すこと。これが、ホワイトヘッドの思弁哲学の意図で� ��る。
文明論は、人間が自らの住まう世界を作っていく営み全体に向けられた考察であり、一方、宇宙論は、世界が人間を含めた森羅万象を作りなし住まわせる営みの全体への考察であるとするなら、有機体の哲学はこの両者を一つの体系の中で考察し、宇宙論的な思弁の上に文明論的な洞察を基礎づけるものであるといえる。
その文明論と宇宙論の結び目となるのが、「今、ここ」での僕らの個別的自己の存在への洞察、つまり、ある深い実存論的な洞察である。
有機体の哲学における実在論的視座の探求という僕らの課題は、ホワイトヘッドの思索の出立点となったこの洞察を吟味することに他ならない。この宇宙においてひとつのアクチュアルな出来事であるとはどういうことかという問いを、僕らはホワイトヘッドに� ��りながら問いかけたい。
それは、人間の世界への関わりを考察し、翻ってこの世界の人間への関わりを思弁するような、全体と個とを往還するホワイトヘッドの視座の中で、僕らの実存を問うことである。そこでは、人間と世界との応答関係の中で、「今、ここ」に個物として有るという僕らの実存が問われる。
現代において求められているのは、個別的自己の私的な価値実現のうちに、それを通じて開示される、世界の公的な価値への洞察と、世界の公的な価値の実現の中で、その焦点となる個別的自己の私的な価値との、公私の断絶に対する和解である。
弐 宇宙への慄きと驚き、安らぎ
僕らの個別的な実存は、その比類のない唯一性と一回性によって際立っているが、しかし、この宇宙で孤立した単独の� ��実ではない。
僕らは、この世界のうちに投げ出された存在として、世界によって作られながら自己自身を作っていき、このような自己創造的被造物として、その創造活動を通じて僕ら自身の住まう世界を作っていく。「現実世界はプロセスである」(PR 22)というホワイトヘッドの言葉は、この営みを捉えたものである。
僕らが、世界によって作られながら世界を作っていくというその営みによって、単なる所与の世界は、僕らの住まう世界としての「故郷」となる。
現代文明が直面しているのは、このような創造活動の中で、僕らがそこから由来し、そこに働き、そこへと帰るような「故郷」としての世界を喪失しているという問題である。
文明化とは、僕ら人間が自らの住まう世界を作っていく営みに他ならない。しかし、現代文明が作り出した世界は、僕らがそこに生まれ、そこに生き、そこに死にゆくような、産土の大地としての「故郷」たりえているのか。世界は、今や、僕らにとって見知らぬものになってはいないか。
近代自然科学は、それまで想像もつかなかっ た広大な「無限の宇宙」を見せてくれたが、没価値的な単なる事実の事柄としてのその宇宙の直中で、僕らはみずからが何もので、どこからきてどこにいくのかを見失っている。
「われわれが『実存する』(実存主義の意味において)のはわれわれが近代自然科学の宇宙の中に見失われているからだ」とレーヴィットは言った(カール・レーヴィット『パスカルとハイデッガー:実存主義の歴史的背景』柴田治三郎訳、未来社、1967年、62頁)。
レーヴィットがいうように、この近代自然科学の宇宙において失われた実存という自覚を最初に、そして最も強く抱いていたのは、パスカルだった。
「『私は、誰がいったい私をこの世に置いたのか、この世がなんであるか、私自身が何であるかを知らない。私は、す� �てのことについて、恐ろしい無知のなかにいる。……私は、私がどこから来たのか知らないと同様に、どこへ行くのかも知らない。』」(『パンセ』ブランシュヴィック版断章194)。
文明の危機は、世界の危機であり、僕らの実存の危機である。危機は、故郷を喪失した僕らの「弱さと不確実さに満ち満ちた」(『パンセ』同断章)実存から来ている。
近代世界がその科学によって僕らに開いてみせたこの没価値的で馴染みのない広大な宇宙の直中で、僕ら自身が「この世界とともに何ができるか」についてのヴィジョンも、それどころか僕らが確かにこの世界の壮大な営みの中に生まれ、生き、死んでいくのだという実感も、失われている。
キルケゴールもまた、この世界の中に見失われていく実存と� �う近代の根本問題に直面していた。農夫が自分の土地の地味を確かめる昔からのしぐさに倣いながら、キルケゴールはこの世界に実存する自分自身の生を問う。
「人は指を大地に突っこんで、自分がどんな土地にいるかを嗅ぎわける。わたしは現にここに存在する生に指を突っこむ。それは何の匂いもしない。わたしはどこにいるのか。世界! 世界とは何を意味するのか。」(『反復』「無名の友から沈黙の共謀者への手紙、10月11日」(桝田啓三郎訳、岩波文庫、143頁))
パスカルの「恐ろしい無知の中にいる」という叫びと、「それは何の匂いもしない」というキルケゴールの呻きは、現代の僕らにとって決して無縁ではない。僕らもまた、この見知らぬ世界の直中で、見知らぬ異邦人のようにみず� �らがどこから来てどこにいくのか知らないままに押し流されているのではないか。
近代自然科学の爆発的な発展は、今にいたっても留まるところがない。その中にあって、故郷喪失を訴えた実存哲学者たちの言葉は、ますます切実さを増して響いてくる。
この文明は、行き着くところまで行き着いているのではないか、という漠然とした不安の中で、現代の僕らは相変わらず先へ先へと追い立てられるように進んで行く。
宇宙は沈黙し、僕らの実存の根柢からの問いかけに応答しない。この沈黙の中で、科学と技術ばかりが邁進し、文明社会は喧騒に満たされている。
「われわれはどこから来たのか、われわれは何ものか、われわれはどこへ行くのか」(ポール・ゴーギャン)
この言葉は、西欧近代文明の� ��光に満ちた進歩と勝利が確信されていた19世紀の終りに、文明社会を捨て、南海にさすらった一人の芸術家が、その生命をかけて取り組んだ作品に冠した言葉である 。
これは、孤独と絶望の中で発せられた人間的実存の根源への問いである。そしてまた、沈黙する宇宙への、そして邁進する文明への問いでもある。
この問いには、近代世界におけるある根本的な気分が表れている。
人間は文明化された世界の直中に、何らの展望も見出せないまま、自己を見失っている。しかし、それにもかかわらず、文明はこの世界に様々な活動の痕跡を印し、不可逆的な変化を招来しつつある。
「ある地点からはもう戻ることができない。しかし、この地点に到達することはできる」とフランツ・カフカが書き残したその地点に、文明社会は立たされているのではないだろうか(フランツ・カフカ「罪・苦悩・ほんとうの道についての考察」断想5、『実存と人生』つじひかる訳、1996年、10頁)� �
僕らは、自分たちが何もので、どこから来てどこに向かっているのか確信できないまま、不可逆的に前進しつつあるのではないか。
現代文明は転換期にある。有機体の哲学は、そのように訴える。70年前のホワイトヘッドの次の言葉は、現代社会にも、深く響いてくるように思われる。
「現代は、その断層において人間的悲惨の最も小さくされた姿を含みながらも、文明の新しい方向を目指す変化の時期だと見なされうると希望しようではないか。」(AI 278)
これは、1933年に米国で刊行された『観念の冒険』の言葉である。大西洋を挟んだ欧州では、同年にナチズムが政権を取っている。両大戦間の危機の時代に、ホワイトヘッドは、文明が創造的な前進を遂げることを希望しつつ、彼の有機体哲学の最後の課題となる文明論を展開した。
彼の文明論の課題は、文明化のプロセスにおける悲劇の意味と役割を吟味しつつ、そうした断層と混乱の中にあって、「文明化の努力のための新しい理想の到来」(AI 279)を見出すことにあった。そうした試みは、時代を超えて、現代にも、また、おそらくは将来にわたって、新鮮な意義を持ち続けている。
僕らの関心は、この危機の時代に、故郷を喪失した同時代人たちに向けてホワイトヘッドが示した洞察と展望にある。
そこに、何の希望があるのか。
ホワイトヘッドは、その有機体の哲学において、僕らの住まう世界と僕ら自身の実存との、失われたつながりを回復するような実存論的宇宙論を展開している。彼は、文明の進歩が、やみくもな邁進ではないことを、宇宙は沈黙する見知らぬ空間ではないことを、実存は見捨てられ孤立していないことを、示そうとしている。
宇宙論的視座から文明を問い、文明論的視座から実存を問うホワイトヘッドの思索を辿ることで、その洞察と� �望に触れてみよう。
ホワイトヘッドによれば、文明の転換期は、人々のものの見方の枠組そのものの変化の時期でもある。それは、世界観の再創造の時期である。文明の転換期は、宇宙論の転換期である。そして、宇宙論の批判と諸観念の吟味は、哲学の役割である(SMW 7,87)。
ホワイトヘッドは次のように言っている。
「現在、人類は自らのものの見方を変更するという、一つのまれな雰囲気のうちにある。単なる伝統による強制はすでにその力を失っている。われわれ――哲学者、学生、実業家――のつとめは、それなしでは社会が騒乱に陥ってしまうような畏敬や秩序といった諸要素を含んだ世界観、しかも徹頭徹尾不撓不屈の合理性に貫かれたひとつの世界観を再創造し、再規定することにある。そのような世界観は、プラトンが徳と同一視した知識である。」(AI 99)
文明の危機において、ホワイトヘッドが強調するのは、合理的で整合的な構図へと体系化しうるとともに、共同体を安定させる精神的基盤としての「畏敬(reverence)や秩序(order)」といった価値を含んだ、ひとつの世界観を作ることである。
世界観は、文明を形成する知の基盤である。「文明化された存在者とは、理解の広大な一般性を用いて世界を見渡すもののことである。」(MT 4)こうした世界観は、単なる知識ではなく、人格を涵養する智恵であり、社会の秩序を支える価値体系であり、それを知ることに意味があるのではなく、むしろそれを生きることに意味があるような知、プラトンのいう「徳」である。
こうした知は、人格を形成する核となり、一時代の精神となる。ホワイトヘッドは、「一時代の精神は、当の共同体の知識階級において実際に支配的な世界観から生じる」(SMW vii)という確信をもって、その文明論を各時代の宇宙論批判の上に展開している。
文明は、ある特定の宇宙論を醸成しながら、そうした宇宙論を中心として生の場を整え、秩序を形成していく営みである。神話の時代から自然科学の時代に至るまで、宇宙論は、文明化された社会の精神的な核となるものであった。その宇宙論を批判し、宇宙論を構成する諸観念を吟味するのが哲学の仕事である(SMW 7)。
さらに、哲学は、「文明化の努力のための新しい理想」を探求し、文明化しつつある社会に、その前進する方向を指し示すことを使命としている(AI 297)。
そのようなものとして、哲学は、文明の危機に対する即効薬を処方するものではなく、むしろ、来るべき時代の精神的な核となり社会的な理想を示すような宇宙論を構築する試みとして、文明化しつつある社会に対して「ゆっくりと働く」(SMW viii)。
哲学は驚きからはじまる。
ホワイトヘッド哲学は宇宙論の構築をめざす。彼の宇宙論的思弁を生み出した驚きは、世界への驚きであったといえる。それは、世界が全体として複雑で多様な細部から成っているように見えるにもかかわらず、それが秩序ある全体として現前していることへの驚きである。
「哲学は驚きの産物である。われわれを取り巻く世界の一般的性格づけをめざす努力は、人間的思索のロマンである」(MT 127)とホワイトヘッドは述べている。世界の多なる要素がそのつど織り成す、複雑で重厚な調和への驚きと、既存の調和を超えて新しさをめざす宇宙のダイナミズムへの驚きこそ、彼の哲学の原点である。
秩序ある全体として現前する宇宙への驚きは、ホワイトヘッドが古代ギリシアの自然哲学者たちと、また、特に『ティマイオス』のプラトンと共有するものである。
後期のプラトンは、秩序ある全体としての宇宙を善なる宇宙、美なる宇宙と捉えた。『ティマイオス』の中でプラトンは、その「善なる宇宙」、「美なる宇宙」という根本的な洞察について、秘密めかした語り口で語っているが、この書こそ、プラトンの全著作の中でホワイトヘッドが最も高く評価した書だった。
この書で、プラトンは次� �ように述べている。
「この製作者(デミウルゴス)が注目したのが永遠のものであるのは明らかです。というのも、宇宙は、およそ生成したもののうちでもっとも美しいもの[立派なもの]ですし、製作者も、およそ原因となるもののうち最善のものだからです。そこで、このようにして生成したのですから、宇宙は、ロゴスと知性によって把握され同一を保つものに倣って製作されたわけです。さて、こうしたことからすると、この宇宙は、必然的に、何らかのものの似像であることになります」(『ティマイオス』29A)
「宇宙の製作者は、すぐれた善なるものでした。・・・・・・製作者は、万有ができるだけ製作者自身に似たものになることを望んだのでした。・・・・・・すなわち神は、すべてが善なるも のであること、できるだけ劣悪なものはないことを望み、こうして可視的なものすべてを[材料として]受け取ったのですが、それらは落ち着きなく、混沌として無秩序に動いていたので、これを無秩序な状態から秩序へと導きました。というのも、秩序のほうが無秩序よりも、あらゆる点でより善だと考えたからです。・・・・・・この宇宙は、神の配慮によって、真実、魂を備え、知性を備えた生きものとして生まれた、と言わねばなりません」(『ティマイオス』29A-30B)
ここに語られている洞察、すなわち、世界が善く在る、美しく在るという直観が、古代の宇宙論と倫理学の思索の原点であった。
ホワイトヘッドの哲学を導いているのは、このように『ティマイオス』を中心としたプラトン宇宙論への共感であった� �いえる。プラトンの直観と思弁を、プラトンと現在の間に介在する2千年のへだたりを考慮して現代に再び提示するなら、「われわれは有機体の哲学に着手しなければならないはずだ」(PR 39)とホワイトヘッドは述べている。
何が皮様嚢腫を引き起こす
プラトンの宇宙論は、現代にそのまま通用するものではない。
その理由は2つある。一つは、「介在する2千年の人間経験」がもたらした様々な変化によるものである。今日では、古代ギリシアの知見をはるかに凌駕する学的蓄積がある一方で、思弁の原点となる万有の秩序への驚きが、学的な営みの中で被覆されてしまった。特に、17世紀以降の自然科学は、宇宙の秩序から美的・倫理的な価値を脱色した機械論的自然観を作りあげ、古代と現代とのへだたりを決定的なものにした。
いま一つの理由は、プラトン哲学に固有の内在的な問題のためである。プラトン哲学の難点は、イデア論が持つスタティックな性格にある。それは、秩序の原因を永� ��不滅の完全な存在に固定する。そこには「生命と運動」がない、とホワイトヘッドは批判している(AI 284)。完全な秩序は、結晶化した美の世界に喩えられよう。そこには恒常性と理想的な調和があるが、僕らの生きる場がない。秩序や調和と「生命と運動」とは、一見、対立する相を提示しているように思われる。
『ティマイオス』の宇宙論的思弁において、プラトン自身がこうした難点に挑戦している。
秩序と運動、静と動のコントラストこそ、宇宙論の中心課題である。「諸理念は、恒常性と流動というこれら2つの観念をめぐって形成される」と指摘した後、ホワイトヘッドは、「永劫に消え去る」時間に対置するかたちで、「永遠の動く似像」としての時間という『ティマイオス』の時間概念に言及している(PR 338)。
後期プラトン哲学においては、イデア論の描く静的な宇宙の秩序を克服するような、静と動のコントラストに立った宇宙論的思弁が展開されているとホワイトヘッドは考えているようである。『ティマイオス』のプラトンは、生命ある宇宙の運動と秩序ある宇宙の調和という2つの洞察に立脚し、両者のコントラストにおいて、宇宙のあり方を考察しているのである。
有機体の哲学は、繰り返し『ティマイオス』に言及しながら、「<調和>の必要性と<新鮮さ>の必要性」(AI 286)あるいは「秩序と変化」、「恒常性と流動」というコントラストに根ざした宇宙論を構築することを目指している。
近代の自然科学が、その土台の崩壊に直面しているのを目の当たりにして、ホワイトヘッドは、善なる世界、生きている世界という古代の洞察に立ち返って思索の原点としての驚きを取り戻しつつ、宇宙の秩序と生命の運動とを思弁する宇宙論を現代世界の知見に見合うかたちで示そうとしている。
自然科学は、自然の厳密に反復的な秩序と、それを記述する論理の整合性がなければ不可能なものとなってしまう。
西欧の知の伝統においては、自然の秩序と論理の整合性とが合致することが、科学の真理性の基準となると考えられてきた。17世紀の天才たちの登場以降、西欧の知の歴史が経 験したのは、物理的な秩序を数学的に記述する論理が、世界を十全に解明し尽くすとすれば、美的ないし宗教的な経験は、無味乾燥な自然に人間の精神が投射した主観的産物に過ぎないということになるという恐るべき事態であった(cf. SMW 54)。
自然は機械のように盲目的に動くと告げる機械論的自然観において、詩人たちの言葉はまったく無意味なものとなってしまう。どのような祈りも、嘆きと感謝も、希求と呼びかけも、物的宇宙にあっては一切の応答を得られず、永遠に沈黙する無限の空間の中で虚しくこだまして消えていく。
脱魔術化した世界は、人間を孤立させる冷厳な宇宙である。
パスカルの描く近代的人間は、こうした宇宙に慄いた。
「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を慄かせる。」(『パンセ』ランシュヴィック版、断章206)
しかし、ホワイトヘッドは、こうした「畏怖すべき空間の中で、安らぎ、安堵していた」と言われる(L.プライス編『ホワイトヘッドの対話』(岡田雅勝・藤本隆志訳)みすず書房、1980年、 25頁)。彼は、沈黙する無限の空間の深奥に、価値を実現せんとする個々の経験に呼びかけ、実現された個別的価値に応答する生きた自然を見出しているのである。
ホワイトヘッドは、自然の法則の仮借のなさと有無を言わせない人間の運命の無慈悲さを冷静な筆致で記す一方で(cf. SMW 10)、優しさと愛に満ちた、万有が調和しつつ新たな価値を創造していく宇宙、プラトンが『ティマイオス』で示した「万有の養い親のような受容者」(『ティマイオス』49A)としての性格をもつ宇宙に言及している(cf.AI.284-285)。「受容者」はまた、「常に存在している<場所>(コーラ)」とも呼ばれている(『ティマイオス』52B)。世界は、そこに生成する一切を養い育てるような、慈愛に満ちた場所である。
このような養い親のごとき場所においてはじめて、万有は生成し、世界によって作られながら、それ自身を作り、その創造の営みを通じて世界を作っていくのである。
こうした自己創造的被造物の創造活動のうちに、僕ら自身の実存もある。
この現実世界は、至るところで生成する出来事に満ち た創造的世界であり、僕らの「今、ここ」での実存は、その創造活動の焦点である。
このような観点から宇宙を理解する根底には、科学の発達を可能にした自然の秩序という信仰がその特殊な一例であるような、「一段と深い信仰」(SMW 18)が伏在しているとホワイトヘッドは言う。すなわち、ひとつの個物が存在するために必要とされるのは全宇宙であり、個物はそこにおいて結びつきあって全体的な調和の体系を成すという信念である。
近代自然科学は、こうした体系のもつ論理的合理性の調和を強調したが、有機体の哲学は、そこに、美的な価値の調和をも見出している。すなわち、「論理の調和が、鉄のごとき必然性として宇宙にのしかかっているのに対し、美的調和は、より繊細微妙なものをめざす途切れがちな進行の中に一般的な流動を形成する、生きた観念として宇宙の面前にある」(ibid.)。
ここには、世界の調和への信念とは別の信念も見出せる。すなわち、世界の流動性、前進性への信念である。
有機体の哲学を貫く根本的な信念は、宇� �が、秩序と調和を示しながらも、それが結晶のような静的な秩序に落着することなく、絶えず躍動し産出する「生命と運動(life and motion)」(AI 275,284,285)に満ちているという洞察、つまり、世界全体が創造性に貫かれた「生きている自然」(MT 148)だという洞察なのだ。
自然は生きている。これが、ホワイトヘッドの宇宙論的思弁の根本をなす自然観・生命感である。
自然と歴史を対比させるという近代的な考え方からすれば、前者は同じものの繰り返しと見なされるのに対して、後者は唯一的、一回的な出来事が織り成す不可逆的な進行ということになる。そうした自然観のもとにこの宇宙を考えるなら、それは物理法則の支配する冷厳で非情な没価値的な領域ということになる。
精確な反復性が自然科学の見る機械論的な自然の特徴であり、一回かぎりの出来事性が、歴史学の見る出来事としての歴史の特徴であって、この両者は互いに共通の言葉をもたないというのが、近代西欧文明における自然科学と精神科学の「二つの文化」の対立軸である。
� �代的な思考の中で、僕らはこうした思考パターンにすっかり馴れてしまっているが、そこに否を唱えた一群の哲学者たちが、20世紀の前半に登場した。ウィリアム・ジェイムズであり、ベルクソンであり、そしてホワイトヘッドである。彼らにとって、自然は物理法則によって支配される機械のごときものではない。そこでは森羅万象が互いに結びつき、あるいは分枝していきながら、唯一的で一回的な出来事を生み出していく。
ホワイトヘッドの哲学は、「生きている自然」という根本洞察によって、二つの文化へと分離した僕らのヴィジョンの統一性と多様性とを再びひとつの宇宙論において取り戻す試みである。それは、この宇宙を「生きている自然」と理解し、さらに「文明化する宇宙」と理解す� �ような哲学である。
そこに生じては滅していく運動は、一つ一つが唯一的な出来事であり、それでいながら、それらの出来事は混沌から出て混沌に帰するのではなく、この自然のうちに与えられた秩序から生じ、その秩序を超えるような新しさを実現しつつ、その新しさによってさらに豊かにされた秩序のうちへと受容されていく。
ある人は、このような宇宙論の中では、自然は歴史化されているし、歴史は自然化されていると評した。そのような宇宙だからこそ、個々の実存に対してよそよそしく対峙し続けるのではなく、価値を実現せんとする個々の経験に呼びかけてくるのである。
歴史化される自然の中に、価値を実現せんとする衝動と希求があり、そのような切実さに対して促し誘う呼びかけと、実現された価値を受け 止める応答とがある。
このような呼びかけと応答の中でこそ、僕らの個別的な自己の実存とその歴史的な営為が、宇宙全体との有機的なつながりを実感し自覚しうる。呼びかけ、応答というのは、相互に呼応しあいながら一切が一切と有機的な関わりもつこの宇宙の中で、私の実存がそのような関わりの一焦点として実感されるということである。
生きていく中で、私はどこからきてどこに行くのか、何のための人生かという問いが起こってきたとき、その問いに対する宇宙的な視座からの答えがあるということが、歴史化された宇宙・宇宙化された歴史という有機体の哲学の求めるヴィジョンなのだ。
参 「生きている自然」における実存
「生きている自然(nature alive)」という表現は、ひとつのメタファーである。それは、近代世界が忘れてしまったある豊穣なヴィジョンを指し示している。
このヴィジョンにおいては、宇宙は、どこまでも多様な諸々の出来事の生成消滅の営みによって躍動する一つの有機体である。
「生きている自然」というメタファーは、宇宙が、細部の複雑微妙な諸契機を産出しつつ、全体の秩序と調和を形成する、創造的に前進するひとつの大きな有機体だということを示している。
換言すれば、宇宙は、細部の諸要素のひとつひとつがその固有の価値を実現するとともに、全体として重厚な調和の価値を作り出す創造過程である(cf. SMW 93-94)。
『ティマイオス』のプラトンもまた、生きている自然としての宇宙を思弁していた。生きているということは、プラトンにとって、生成しては消滅する時間的なるものとしての肉体(物質)と、生成も消滅もしない永遠的なるものとしての魂とが重なり結びつきあっているということであった。
先に引用した『ティマイオス』の言葉をもう一度みておこう。
「この宇宙は、神の配慮によって、真実、魂を備え、知性を備えた生きものとして生まれた、と言わねばなりません。」(『ティマイオス』30B)
すべてを養い育む受容者の中で物質的素材に魂が結びついたとき、そこに生成し消滅していくものが生命である。宇宙全体が、そのような結びつきによって生成している。
その意味で、プラトンにと� �ては、宇宙全体が生きている。
ホワイトヘッドは、このプラトン的な「生きものとしての宇宙」という最初の洞察を『ティマイオス』から引き出してくる。
そのとき彼は、生きた有機体のアクチュアリティを時間的なるものと永遠なるものとの結びつきと理解している。こうして、有機体の哲学はプラトン哲学を自覚的に継承するのだが、その実存論的宇宙論には、プラトンから受け継いだものと、プラトンを批判してその原初的洞察をさらに掘り下げたものとがひとつになって表現されている。
ホワイトヘッドが受け継ぐのは、この「生きている自然」という最初の洞察が開示する豊穣な宇宙において、時間的なるものが永遠なるものと結びつくことで生成していくという洞察、および、そこに現前する 実在の真景の、合理的思弁によっては汲み尽せない深さの感覚である。
時間的なるものと永遠なるものとが結びつくというのは、合理的な視座からは矛盾である。しかし、この結びつきにおいてこそ、宇宙の森羅万象は生きた有機体として生起するのであり、宇宙全体が創造の営みによって満たされたひとつのプロセスとして感じられるのである。
この宇宙における永遠なるものの存在を発見したことが、プラトンのギリシアの偉大さであった。
一方、彼が批判するのは、こうした宇宙の営みから、「生命と運動」を抜き取ってしまうような合理的な宇宙論的・形而上学的解釈である。
プラトン自身が、イデア論的な構図を示唆することで、時間的なるものと永遠なるものとの結びつきにおいて生きたものとなる� �の宇宙の全体的統一性を合理的に分割し、永遠なるものの世界と時間的なるものの世界との二世界論的な分離の構図を描いた。
生命の営みにおける永遠なるものと時間的なるものとの結びつきの発見がギリシア哲学の栄光であり、宇宙における永遠なるものの地位を見誤ったことがギリシア哲学の失敗であった。
ホワイトヘッド自身の言葉を引こう
「[恒常的な価値の世界と生成する活動的世界とを結びつける共通要素としての]『イデア』を明示的な形で発見したのがギリシア思想の栄光であり、宇宙におけるその地位に関して理解を誤ったことがギリシア思想の悲劇である。」(ESP 83)
生きている自然としての善なる世界を表現する論理として、プラトンと彼に続く哲学者たちが採用したのは、永遠なるものの恒常的な価値の世界と時間的なるものの生々流転する事実の世界とを分離させる二元論だった。
ホワイトヘッドは、プラトンの最初の直観の豊穣さと深さとを高く評価してこれを受け継ごうとし、一方でプラトン自身と後代の学者たちがこの直観の合理的解釈として提示した二世界論的な論理を批判し、これを破棄しようとする。
ホワイトヘッドにとって、「生きている自然」というときのその生とは、時間的なるものが永遠なるもの結ばれて生起してくるという、ひとつの出来事である。この出来事の生起において、永遠なるものの恒常的で抽象的な価値の世界から時間的なるものの流� �的で活動的な事実の世界への受肉としての具体的な価値の実現がある。
生きているということは、固有の価値を実現するということであり、すなわち、抽象的な価値の潜在的可能性を具体的事実のうちへと受肉させることである。生は、自らの生成において価値を実現し、その消滅に際して実現された価値を享受し、満足する。
生命の本質は、自らの固有の価値の実現と享受である(MT.116,135)。
しかし、価値実現は、宇宙の個別的要素についてのみ言える事柄ではない。個別的要素の特殊な内的調和において、そうした個の住まう宇宙の普遍的な調和が例示されている。すなわち、「私にとって重要なのは、今の私の情緒的な価値であり、それは、全体から、また他の諸事実から導かれてくるものを自らにおいて体現し、そ� ��て未来の創造性への関連を自らにおいて体現しつつある。」(MT 117)こうして、全体が、個において反復される(PR 215)。
個別的自己は、その固有の価値を実現する際に、「『所与性』の全体(a totality of'givenness')を必要とする」のであるが、翻って全体としての世界から見たときには、当の個別的価値の実現を通じて「『所与性』の各々の全体が、それに相応しい『秩序』(its measure of'order')を達成する」という仕方で、個が全体の調和を具現する場となる(PR 83)。個別的な価値の実現のためには全体が必要であるのと対照的に、全体的な価値は、個物においてはじめて具体的に表現されるのである(cf. PR 83)。
私は子宮を持つことができますしてください。
このような有機体の哲学の視座からは、近代の実存哲学が直面したような、冷厳な機械論的宇宙において孤立し見捨てられた実存という断絶と故郷喪失は、ひとつの宇宙論的・実存論的な誤謬に基づいた認識であるということが明らかになるだろう。
自然科学の描き出す物質主義的機械論の宇宙像を、僕らがそこに生まれそこに生きそこに死にゆくような現実の世界の真景と見なしたところに、近代自然科学の世界の根本誤謬がある。
ホワイトヘッドはこれを「具体性を置き違える誤謬」と呼んだ。
僕らはここで、ホワイトヘッドという20世紀の基礎物理学と応用数学、形式論理学に精通した現代自然科学の大家が、近代自� ��科学の描く宇宙像を物質主義的機械論と喝破し、「生きている自然」というメタファーを掲げて有機体の哲学を提唱したその本懐を見なければならない。
近代自然科学から導かれる機械論的宇宙論を当然の常識として受けいれている現代社会において、ホワイトヘッドの主張は、非常識かつアナクロニックな戯言と映るだろう。
彼によれば、近代自然科学の描く宇宙は、「無価値、無感覚、無目的」な物的要素が、数学の言葉によって書かれた自然法則に盲目的に従って、瞬間ごとにその位置を時空の一点に占めつつ、その数式が定めた軌道をその数式が定めた速度で運動する、精妙な機械である。僕らはその宇宙において、価値を見失い、おのれの実存を見失っているが、しかし、この宇宙像を僕らの生きる� �実世界の具体的な真景と信じて疑わない。ホワイトヘッドは、徹頭徹尾、この宇宙像は抽象的であって、実在の真景を捉えたものではないことを主張する。
僕らを戸惑わせるのは、自然科学がその精妙な機械論的構成を解明しつつあるこの宇宙が、より具体的には「生きている自然」として認識され解明されるべきであると本気で信じている人が、近代以前には大勢おり、そして現代にもいる、という事実である。同じ宇宙に生き、同じ宇宙を見つめながら、彼らの信念と近代人の信念とは、互いに共約可能な言葉をもたない。
ホワイトヘッドは、この断絶を修復しようとした。前近代的ともいえる「生きている自然」というメタファーによりながら、近代自然科学の知見にも匹敵する徹頭徹尾一貫した合理性に 貫かれた宇宙論を構築しようとする。それは、自然科学の論理を排除することなく、しかも、僕らがそこに生き、死んでゆく故郷としての現実世界を描き出す宇宙論であることを目ざしている。
有機体の哲学は、「生きている自然」として、創造的に新しい価値の実現へと前進する世界という展望を示している。このような世界において、個別的自己はどのように意味づけられるのかが、実存論的宇宙論の論題である。
この問いに対して、ホワイトヘッドは、自己自身であろうとしつつ、自己自身を超え出るという生の根本的な営みへの洞察にうったえている。
「生とは、その環境の諸条件が許容する完成を目指すものとしてのみ理解される。しかし、この目的は、常にすでに達成された事実を超えている。」(AI 80-81)
自己自身であろうとして自己自身を超えていく生の営みの目的は、それ自身の完成である。これは、すでに達成された事実を超え出て新しい価値を創造せんとする「超越的な目的(transcendent aim)」(AI 81)である。生は、その環境世界によって制約されながら、その環境世界の頑固な事実を超えて、それ自身の固有の主体的個別性を達成しようとする。こうして、生は、脱自的に自己を超え出つつ、自己の完成を目指す。
こうした生の脱自的超越と自己の完成への意欲という個別的な営みが盲目的になされるとき、生の自己創造的な活動は周囲の環境世界に対して破壊的なものになるであろう。「不幸にも、生とは攻撃的なものであり、<宇宙>の反復的なメカニズムに逆らうものである。」(AI.80)
生が、それ自身を制約する環境世界の重厚な諸条件を超えつつ、すでに達成された秩序の反復に対して、ただ自己自身の主体的個別性の確立だけをめざし、そしてこのような新しさの確立によって招来されるかもしれない不調� �に無頓着なままであるとするなら、そうした生は偏狭で孤立した要素として、破壊的であるといわなければならない。
このような盲目的な生の利己主義と破壊性に対して、ホワイトヘッドは二重の展望を示す。
その一つは、倫理的・道徳的な生のあり方であり、今一つは、宗教的な生である。
節を改めて、「生きている自然」という有機体の哲学の展望の中で、生の利己主義と、それ対する第一の倫理的な生と第二の宗教的な生とを順に見ていこう。
四 美的実存・倫理的実存・宗教的実存
生とは、何よりもそれ自身のためにある、ということを有機体の哲学は認める。生の営みは、宇宙の至るとこに生起する細部の多様な出来事として、それ自身の個別的な価値を実現しようとする衝動に貫かれ ている。
有機体の哲学は、次のように主張する。
「生は、自らを他者と関係させる外的事実であるよりも先に、それ自身のために存在する内的事実である。外的な事実は環境によって条件づけられるが、その価値が依存している最終的な性質は実存の自己実現としての内的生から受け取るのである。」(RM.15-16)
繰り返すが、自己を実現しつつある生は、それ自身のためにあることを有機体の哲学は積極的に認める。そこで実現される価値は、環境世界によって条件づけられてはいるが、その生の個別性においてのみ実現される一回かぎりの唯一独自の価値である。
自己実現とは、他者との、あるいは環境世界全体との公的な関係性によって条件づけられ養い育てられた、自己の唯一独自の個別的価値への人格的で� �的な到達である。自己自身になるということ、すなわち実存するということは、その意味で、本来利己的である。そこには、自己の人格的なあり方への固執がある。
しかし、生の利己的なあり方は、他者に対する無情さと、周囲の環境世界との正しい関係を結ぶことへの無関心とによって、破壊的なものとなるであろう。
生の盲目的な自己実現が破壊的であるがゆえに、他者との関係においては道徳性が要請される。自己を超えたものへの配慮が、成熟した生のあり方であり、文明化された社会のあり方である。
自らの利己的なあり方の狭さと無情さを自覚して、自己を超えたものへの視座を開いていくところに、生きているものの成熟と文明化がある。ホワイトヘッドの言葉を使えば、「生は略奪である」が、し� ��し「この点においてこそ道徳が生にとって焦眉のものとなる」のである(PR 105)。
道徳性とは、生がその盲目的な自己の完成への固執を超えて、より一般的な展望を持つこと、自己の完結した個別性の実現が、自己がそこに置かれてある世界との関係性において成立していることを知ることである。
ホワイトヘッドは次のように述べている。
「すべてのものは、それ自身に対して、他者に対して、また、全体に対して、ある価値を有する。これが現実態の意味を特徴づけている。実在を形成するこの性格のために、道徳という概念が生じてくる。」(MT 111)
生は、それ自身に固有の価値をめざして主体的個別性を達成する。それ自身に対する価値の実現と享受というあり方は、キルケゴールの言う美的な実存といってよい。
そこには、確かに、生がそこから生まれた基盤としての現実世界の多なる要素が一つの秩序のもとに調和的に具現されてはいる。しかし、そこには、生きている自然の中でひとつの出来事して生起してくる生命という自覚がない。美的実存は、その価値実現を全体と個とのダイナミックな交互連関において果たしているが、全体から個へと凝集する仕方での価値の実現はあっても、個としての自己から後続する他者へ、全体へと超え出てゆく仕方でのより広大な価値の実現はない。
有機体の哲学は、その客体化の理論において、各々の出来事がそれ自身の� �体的個別性を達成したとき、その出来事は主体―自己超越体としてそれ自身を超え出て後続するものの生成のための与件として投げ出されていくと説く。
他者の自己実現のために存在するというこのあり方は、キルケゴールの実存の三段階に照らせば、倫理的な実存と呼べるであろう。
このような仕方でそれ自身の価値実現をめざしつつ、実現された価値を超え出て他者のために存在するという生の営みの全体が、道徳を形成する。
そして、このようにして、そのつどの生は、みずからの存在において世界全体の価値を固有の観点から実現しつつ、そこに達成された自己の個別性を超え出て、全体としての世界が新たな秩序を獲得していく創造的前進の焦点として寄与する。
そこには、全体と対峙する個、というあり方が 現れる。すなわち、「アクチュアルなものども(actual entities)は、共通の資産に貢献しているが、しかも彼らは独りで耐えている。」(RM.88)全体の開けの中での個の孤独、というこの展望は、パスカルの洞察に通じる。他者への倫理的な関わりは、そのとき、この孤独に耐えるアクチュアルな実存にとって、慰めにも支えにもならないとパスカルは言う。
「われわれが、われわれと同じ仲間と一緒にいることで安らいでいられるのは、おかしなことだ。彼らとて、われわれと同じく悲惨であり、われわれと同じく無力なのである。彼らはわれわれを助けてくれはしないだろう。死ぬときはひとりなのだ(On mourra seul)。
したがって、人は、そのように生きなければならない。」(パスカル『パンセ』ブランシュヴィック版断章211)
パスカルにとって死にゆくということの孤独は、美的な実存の終焉であると同時に、倫理的なものの停止でもある。すなわち、他者との関係は、死の孤独において停止する。
しかし、有機体の哲学にとっては、自己の消滅は、後続する他者へと自己自身の実現した価値が超え出ていくということ、すなわち客体化である。僕らの生は、自らを超越することによって、他者の生における価値実現に寄与する。僕らは、死においてすら他者との倫理的な関係において自己自身であり続けるがゆえに、死は、倫理的なものの停止とはならない。換言すれば、有機体の哲学においては、死すらも、孤独ではない。
しかし、アクチュアルな生の契機のひとつひとつは、それ自身を養い育てる場としてのこの宇宙全体に対峙するとき、決定的に孤独である。アクチュアルな生の契機は、「主体−自己超越体(subject-superject)」として、全宇宙へとみずからを超え出つつ、全宇宙に対峙している。死においてすら孤独ではなかった僕らの個別的実存が、全宇宙を自らに引き受けようとするとき、決定的に孤独となるのだ。
この間の事情について、ホワイトヘッドは多くを語らない。しかし、彼はある箇所で次のように述べている。
「われわれは道徳的個性を発達させてきた。その点で、われわれは――独りで――宇宙に対するのだ(we face the universe--alone)。」(ESP 65)
全体におけるこのような個別的なものの性格をホワイトヘッドは宗教と呼んでいる。すなわち、「世界は共同体における孤独性の一舞台」であり、「宗教の論題は共同体における個別性である。」(RM 88)
この世界において、みずからの個別的価値をもって全体に貢献する個として、また、みずからの個別的存在において全体を代表する個として、宇宙全体をその個別的実存において引き受けようとするとき、僕らは孤独なのだ。そして、その孤独に耐えつつ立つことが、宗教的実存であるといえよう。世界に対峙しその全体を引き受けることの孤独について、ホワイトヘッドは次のように述べている。
「文明化された人間の想像力を捉えて放さない偉大な宗教的諸概念は、孤独の情景である。岩に縛られたプロメテウス、砂漠で黙想するムハンマド、仏陀の瞑想、十字架上の孤独の人がそれである。神にすら見捨てられたと感じたことこそ、宗教的な精神の深さに属することがらなのだ。」(RM 19-20)
美的な実存は、それ自身のためにそれ自身の価値を実現し、たとえその価値実現の生が苦しみと不如意に満ちたものであったとしても、実現された価値を享受する際には、おのれに満足して消えていくことができるであろう。
倫理的実存は、他者のためにそれ自身の存在を差し出し、たとえその自己超越が悲哀と苦悩に満ちたものであったとしても、そこに実現しつつある自らを超えた価値を予見しつつ、満足して消えて行くことができるであろう。
しかし、自らを含む一切を養い育むこの宇宙全体を引き受け、全体のために実存しようとするとき、その人は、十字架上の孤独の人がそうであったように、「神にまで見捨てられたと感じる」ような孤立無援の孤独に耐えねばならない。
生とは、世界において それ自身の固有の価値を実現するという意味で、「共同体における孤独性」に独りで耐え、また、それ自身を超え出て他者のため、全体のために寄与するという意味で、「共同体における孤独性」という逆説的な関係性の中で、それ自身のかけがえのない価値を有する。
「今、ここ」において固有の価値を実現するためには全宇宙が必要であるということ、そして実現する価値は全宇宙の創造的前進のために必要であること、「今、ここ」での個別的自己とは、そうした全体と個、自己と他者との関係性において、多くのものがともに成長する主体的統一と調和のプロセスであるということ、こうした関係性への展望をもつことが、道徳の最高にして最終の到達点である。
しかし、ホワイトヘッドの主張したこと� ��、それにとどまらない。その到達点で僕らが立たされるのは、全体を引き受け、全体のために存在しようとすることの孤独さである。僕ら一切を育み、僕らがそこに生まれそこに生きそこで出会いそこに別れそこに死にゆくこの現実世界の全体を引き受け、その全体のために実存しようとするとき、僕らは耐えることができないほどの孤独に立たされる。
こうした全体における孤独という情景のうちに、ホワイトヘッドは宗教的実存を見る。それは、真に、倫理的なものの停止である。
「宗教は決して必然的に善ではない。それは非常な悪でありうる。・・・・・・諸君が契約を結んだ神は、諸君の宗教的経験において、破壊の神であるかもしれない。すなわち、通り過ぎた後により大きな実在の喪失を残す神であるかもし れない。
宗教を考える場合、われわれはそれが必然的に善であるという観念にとりつかれてはならない。これは危険な幻想である。注意すべき点は宗教の超越的重要性であり、この重要性の事実は歴史に訴えることによってじゅうぶんに明らかである。」(RM 17-18)
ホワイトヘッドの議論は、微妙なところに差しかかっている。
「宗教は非常な悪でありうる」という言葉も、大変に微妙な表現だが、「注意すべき点は宗教の超越的重要性である」というのは、更に微妙だ。注意して読まないといけない。
宗教が悪でありうるということは、歴史に訴えることで明らかであるが、宗教の超越的重要性は歴史に訴えることで明らかとなるのか。
今僕は、この論題について積極的な議論をすることはできないが、ホワイトヘッドがどういうことを言っていたか、引用だけしておこう。少々長いが、その言葉は、読む者に、ものすごく強い印象を与える。
「主体的目的の知恵は、こうした完成された体系において、すべてのアクチュアリティを、それがありうるところのものとして――その悩み、その悲しみ、その失敗、その勝利、その直接の喜びを――抱握する。・・・・・・しかもそれら[のアクチュアリティ]が、個々の喜びにおいて、個々の悲しみにおいて必要とされたコントラストの導入のうちで達成した善は、それが完結した全体と関係づけられることによって救われる。こうして働く神の本性が最もよく思い抱かれるイメージ――それはただイメージにすぎないのだが――は、何ものも失わせまいとする優しい配慮のイメージである」(『過程と実在』第5部2章4節)
ホワイトヘッド独特の術語(主体的目的だの抱握 だの)が出てきて、とても読みづらいかもしれないが、ここで言われていることは、北森神学で提唱され野呂神学で問われている「苦しむ神」という言葉に通じるように思う。
厳密に言えばそれは「苦しむ神」ではない。神は世界の苦しみを超えて、苦しむ世界とその世界の希求する喜びとのコントラストを感じているのだ。
そして、世界は、神のその広大な感じを超え、そこから逸脱して、自らの被る苦しみを感じて、「神さま、なんでだ」と問うのだ。
いきなり引用した術語「主体的目的の知恵」というのは、一言で言えば、生成する個々のものたちに、こちらへ向かって生成するよう誘うものである。それは、僕らが僕ら自身を実現するよう誘う神の呼び声である。
現実世界を救済する神� �「結果的本性」についてホワイトヘッドは語る。神の救済とは、「救済されうるものは何でも失うまいとする優しさの審判」(同所)である。
この箇所には、ホワイトヘッド独特の「苦しむ神」が、しかも苦しみを超えて、その希求とのコントラストにおいて世界の苦しみと望みを感じる神が、語られているように思う。この杯を取り除いてくれ、という祈りを、その苦しみとともに希求をも一緒に感じる神だ。
神と世界とは、互いを直接に感じあっており、しかも、互いを超えて、神は世界の苦しみをより広い視座において感じ、あるいは世界は神の感じを自己の直接性においてより狭い視座において感じるのである。世界は、いつも広大な神の感じを「今、ここ」の直接性のなかで自らが被る感じ として感じる。
互いに互いを超えつつ、互いに互いを感じ合う神と世界との「交互的直接性」というホワイトヘッドの神学を受けて、プロセス神学者のカブはこんな風に言っていた。
「世界は神の外に、神と離れては存在しない。しかし世界は神ではなく、あるいは単に神の部分ではない。世界の性格は神によって影響される。しかしそれは神によって限定されるのではない。そして世界の方は、神の経験に新しさと豊かさを寄与する。」(『神と世界』John B. Cobb Jr. God and the World, 1976, Wipf and Stock Publishers, 1998, p.80.)
ここで、下敷きになっているキーワードは、ホワイトヘッドの宇宙論体系の基礎的な考えだった「創造的前進を交互的直接性の保持と結合させる特質」(ホワイトヘッド、同所)である。
神と世界とは、互いが互いを感じつつ、その喜びも悲しみも、またその促しも誘いも感じつつ、互いに創造的に前進する、というのが、ホワイトヘッドの考えだったようだ。「神の愛」について語るとき、ホワイトヘッドは、「神は真、善、美のヴィジョンにより世界を嚮導する優しい忍耐をもった世界の詩人である」(同所)と述べている。
いいところ取り、という批判がプロセス神学に向けられることがあるが、そういうところはあるだろう。よく読むと、神は僕らの苦しみを直接的に感じるというよ り、僕らの苦しみや悲しみと、その苦しい現実の中で僕らが希求した喜びや安らぎとのコントラストから導かれる「善」を感じるといっているようなのだ。なぜ現実の直中での苦しみと、苦しみの直中で希求される喜びとのコントラストが「善」なのか、さっぱり、わからない。
このあたりのホワイトヘッドの議論の詳細は、正直、読んでもよくわからん。
プロセス神学とホワイトヘッド宇宙論では、神は、世界とともに(そしてカブが指摘していたが、僕ら個々の存在者とともに)苦しむ神であり、そしてその苦しみを超えたところで、世界を忍耐強く誘う神であり、世界に実現されたものを、その悲しみも苦しみも喜びもいっさいを受け止めて、「何ものも失わせまいとする優しい配慮」の神であ� ��。これを残酷と呼ばず、「優しさ」と呼んだところに、ホワイトヘッド宇宙論の、肯定的というか積極的というか、よく言えば包容力のある、悪く言えば、あまりに楽観的な、特質があるように思う。神が全ての現実を、その悲惨さを含めて抱きしめてくれるというのだ。
文明化というのは、この世界(あるいは文明化された社会)に働きかけて創造と調和へと僕らを促す作用が、「力の福音」から「愛の福音」へと変わっていくこと(SMW 206)、あるいは「力から説得へ」と変わっていくこと(AI 69)だと言われている。
しかし、そこには、「悲劇」がある。この文明化されつつある宇宙には、「悲劇」があると、ホワイトヘッドは言う。
「悲劇」という概念は、彼の文明論に出てくる(AI 286-289)。その例として、この世界の仮借ない冷淡な進行を挙げることができるだろう。しかし、それは、自然科学が提示したような機械論的な物質の運動のことではない。
意味や価値を実現しようとする僕らの熱意や衝動や希求にもかかわらず、価値あるものも含めて一切が生成しては消滅していくという、この生滅の世界の仮借のなさをさして、ホワイトヘッドは「悲劇」と言っている。
有機体の哲学が主張するように、現実世界が生成と消滅のプロセスであるかぎり、そこには、消滅することの「悲哀(pathos)」や空しさが、あるいはホワイトヘッド自身が言うように、消滅することの「悪」が、あると言える。
成長しつつあったもの、成熟のときを向かえようとしていたもの、あるいは、成熟し� ��足して消え去りつつあるものが、この世界から消滅していくという出来事は、不可避でもある。創造的な価値の実現と享受が生命の、そして文明社会の、よろこびであるとすれば、不可避的な価値の消滅は悲哀と苦悩だといえるだろう。
それが不可避である、あるいは僕らにとってはいかんともしがたい運命的なことであるというところに、ホワイトヘッドは、「悲劇」の本質を見ているように思える。
誤解が多いので、敢えて断っておくが、有機体の哲学は、創造のプロセスにおいてすべてが究極的に調和すると言っているのではない。それは、「悲劇」をも含んだ現実世界の直中で、ひとつの実存として生成し生滅していく僕らの直接の経験から出立している。
生成とは、創造の営みであるとともに、� ��来の秩序に対して、破壊、逸脱、不道徳であることをも意味する。そこにも「悲劇」の色合いがある。そのつど調和をめざして生成していく個々の実存が、まさに生成することによって、そのつど調和を超え出ていく、乱して行く、不協和を招来する、破壊をもたらす。
未来のいつかに調和があるのではなく、今、ここで、それが希求されるのだということ、しかも、そのように希求しながら調和をめざしていく僕らの営みが、すでに実現されたものの世界にかろうじてあった一定の程度の調和をも乱していくということ。ひとたび深刻にそれを自覚してしまうと、僕らは、一歩も動くことができない。
創造と調和は、そのとき、プロセスとしての宇宙では、齟齬するのだ。
このあたりには、革新と保守の対立とい� �図式で人間社会を見るイングランドの伝統的な見方があるのかもしれないと僕は思っている。
ホワイトヘッドは、調和よりも創造性を重視する立場を、著書のかなり重要な箇所で示している。
いくつか引用してみよう。
「創造性は、究極的事態を性格づけるもろもろの普遍的なもののうちの普遍的なものである。」(『過程と実在』第1部、2章2節「究極的なものの範疇」)
「秩序は十分ではない。要求されているのは、もっとずっと複雑なあるものである。それは、新しさへと入っていく秩序である。」(『過程と実在』第5部、1章3節)
プロセス神学者と呼ばれるホワイトヘッドの後継者たちがどうなのかは別にして、ホワイトヘッド自身は、この世界には調和ないし秩序よりも、� ��新しさへと入っていく秩序」が求められているとし、世界の究極は調和ではなく、創造性だと言う。
世界のすべてのものが生成していく営みのうちに創造性を見るのが、有機体の哲学である。もちろん、その営みのうちには調和も見出される。しかし、それは、留まることなく変化し、破れていく調和であり、新しく調和した秩序へと移りゆくものであり、またそのような変化へと向かう秩序であることを求められている。そして、その変化の直中に、「断層」が、「悲劇」と「悲惨」があるとホワイトヘッドは言う。
「現代は、その断層において最も小さくされたものの人間的な悲惨を含みながらも、文明の新しい方向をめざす変化の時期だと見なされうると希望しようではないか」 (『観念の冒険』第19章3節)
この引用の前半は、世界の創造的に前進するプロセスの「断層」において小さくされた者の「悲惨」を語っており、すぐ直後の文ではこの現代の断層は「第一次大戦の悲惨」と言い直されている。しかし、引用文の後半は、そこに新しいものへの変化という希望を見出そうという呼びかけになっている。
ホワイトヘッドはこういう点で、楽観的だと言われるのだろう。
だけど、微妙な点だが、その「断層」ないし「悲惨」が、新しい秩序とか調和を示すものとしてではなく、新しい変化を含むものかもしれないという点に、ホワイトヘッドは「希望」を託しているのだ。
すべてが死ぬのではなく、そこに生命の営みと文明の営みがあ るのではないかという「希望」を託すのだ
ぎりぎりの「希望」だ。
「悲劇」とか「悲惨」は、それを通って調和へと至るための試練ないしは通過点として意味があるというロマン主義的な見解はホワイトヘッドにはない。いや、自信はないが、そういうロマンティシズムは、ほとんどないといっていいだろう。むしろ「悲劇」は、創造性というこの世界の究極の原理が今、ここで現実化されるとき避けて通れないものとして、問題視されている。
一切が新しいものをめざして創造的に生成していくよう促されているなら、その創造のうちにある「喧騒」「破壊」「悲惨」「消滅」はどうなるのか、というのが、ホワイトヘッドの問いだった。
新しさへの創造と調和した秩序とを対比して、ホワイトヘッドは次のように言っている。
「しかしこの二つの要素は、実際、分離されてはならない。世界の定着した秩序が、別の時代の不協和音を奏でる微かな曙光を優しく取り扱うべきだということが、世界の善性に属している。」(『過程と実在』第5部、1章3節)
世界が善い、美しい、というプラトン的な認識は、有機体の哲学にも確かに受け継がれている。しかし、その「世界の善性」は、イデアの似姿としてイデア界の完全な調和を映す不完全な生成界の仮の調和のうちに見出されているのではない。実現した秩序ないし調和は不完全ながら価値があるけれども、そこから、それを乱すものが出てくるとき、その新しいものの創造を圧殺しない� ��界の寛容さを指して、ホワイトヘッドは「世界の善性」と呼んでいる。
ホワイトヘッドはこうして非常に巨視的な宇宙論的な視座から、世界の創造性に希望を持とうと、危機の時代の直中にむけて呼びかける。けれども、そこには常に、創造性の働くために起こってくる破壊や「悲劇」の可能性があることを彼は自覚している。きっと、誰よりも強く、自覚している。
微視的な個別的な視座から見ると、今、現にそこにいる各々の存在者は、まさにこの古い秩序と新しいものへの変化とのはざまの「断層」のうちに置かれてる。生成の途上で寸断される生命があり、自らの生成のために他から略奪する生命があり、そして、自らの生成のためですらなく略奪するものもあるかもしれない。
生命は、 そういう「断層」のうちに生きているのであり、そこでこそ、ホワイトヘッドは、文明化とは何かを問うのだ。「断層」の直中で、他の生成のために自己を超え出て与えていく生命があり、世界全体の幸福を希求する生命がある。そのような生命の営みにおいてこそ、文明化の創造的活動は、働いているのだと、ホワイトヘッドは確信している。それだからこそ、彼は、文明は「力から説得へ」と前進してきたのだと言うのだ。
文明化は人為と自然の融合としての「芸術」を含むとホワイトヘッドは言っている。しかし、「芸術」も含めて、文明化されていく人間の営みは、人為によっても自然によっても実現し得ないものを希求する営みでもある。すべてが調和し、「断層」に生きる苦しみも「悲惨」もなく、しかも創造的であるような理想郷は、何ものによっても実現されえないだろう。「平安の経験は、たいてい賜物としてやってくる。」(『観念の冒険』第20章3節)
もし「平安」があるとすれば、それは「悲劇を理解することであり、同時にそれを保持することである」(同4節)とホワイトヘッドは言っている。そして、その「平安」の文明論は、論理として破綻し� ��いると告白している。
ホワイトヘッドは、この世界でもっとも小さくされた者の「悲惨」もまた、生命の営みなのだという。しかし、それで問題が解決したというわけではない。そんな安易な解決には誰も納得しない。
「悲劇」もまた、生命の営みなのだという事実を突きつけて、ホワイトヘッドは、その「悲惨」と「悲劇」の直中で、それでも生命でしかありえない僕らが、何を希求しているのかを問うている。しかも僕らは、不完全ながらも、文明化された生命なのだと彼は言う。そして、文明には、完成がないと言うのだ。
「断層」の悲惨の直中で「平安」を希求しつつ、あるいは絶望しつつも、創造的であろうとすれば、僕らはどんな一体、どんな「希望」を 抱いたらよいのか、とホワイトヘッドは問うているのだ。
そこが読めないホワイトヘッド研究者は、要するに、何も読めていないんだと僕は思う。
僕らが今、ここで、それでも何かを為そうとするのであれば、ホワイトヘッドは、そこに原初的に働く神の「促し(urge)」を見出し、そして、こっちだ、大丈夫だ、と呼ぶ神の「誘い(lure)」を見出しているのだ。それが彼の思弁哲学を突き動かす信念だったのだ。それが、神の原初的本性とか結果的本性とか呼ばれるホワイトヘッドの神論の原点だったのだ。
論理学者であったホワイトヘッドは、最後まで、論理でそれを語ろうとして、そして、語れない、と最後に告白して終わっている。『過程と実在』でも、『観念の冒険』でも、その論理を語ろうとして、� ��して、ダメだ論理は不完全だと言っている。
ホワイトヘッドほどの人が語れないといっているものを語ろうとする奴がいたら、まずは疑ってみなくちゃならないだろう。それは、論理では、つまり、、つまり、三人称では語れないのだ。しかし、彼が二人称で神にどう語りかけたかを問題にするのは、お門違いだ。それは、彼の個人生活、信仰生活の問題であり、思弁哲学の問題ではないからだ。思弁哲学は、神に二人称で語りかける言葉ではない。それは、祈りとは違うのだ。
ある人たちは、祈りとか預言とは違う言葉で神を語る論理があることに驚き、いぶかしがる。またある人たちは、そもそも神に祈るとか預言とか、そんな言葉があること自体に驚き、疑問の眼を向ける。どちらの人も、ことがらの半分しか見ていない。自分たちの言語が絶対だと思っている。
ホワイトヘッドの実存論的な論究は、僕らが徹底的に相対的な言語のうちでしか生きられないということを強く自覚した人の、ぎりぎりの論究だったのだ。
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